セルフ・カウンセリング
自分の心に出会えるメルマガ


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セルフ・カウンセリング
♪ 自分の心に出会えるメルマガ ♪
( ”イライラ””モヤモヤ”が解消できる!)
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第 62 号 2009年 10月 1日
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みなさん、こんにちは。
「セルフ・カウンセリング ♪自分の心に出会えるメルマガ♪」をお読みいただきありがとうございます。
みなさんは、セルフ・カウンセリングという言葉を耳にしたことがおありですか?
これは、渡辺康麿氏が創案した、書いて読む、一人で出来る自己発見法です。
私たちは、このセルフ・カウンセリングを学んでいるグル-プですが、みなさんにも、ぜひ、この方法をお伝えしたいと思い、 同氏の著書を連載することにいたしました。
楽しくお読みいただけたら幸いです。


連載になっております。興味のある方は、バックナンバーからお読みいただくとわかりやすいと思います。
   1〜22号   「自分の心に出会える本」より
   23号〜    「自己形成学の創造」より
   32号〜    「セルフ・カウンセリングの方法」より
   62号〜 新連載「自分って何だろう‐現代日本人の自己形成‐」より



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人は、生まれてから今に至るまでの人生の中で、いろいろな経験をします。
そして、その経験を通して、「こうしなければならない」とか「こうあらねばならない」とかいうその人なりのモノサシを形作っていきます。

自分の生い立ちを振り返ることによって、無意識に取り込んできたそのようなモノサシに気づき、 そのとらわれから自由になっていく方法を自己形成史分析といいます。

セルフ・カウンセリングという方法は、このような、自己形成史分析という自己探求の方法が基礎になっています。

☆★☆セルフ・カウンセリングとは?☆★☆

セルフ・カウンセリングでは、自分が経験した日常生活のある時の場面を書きます。
家庭や学校、職場での場面など、どのような場面でもかまいません。
テレビを見た時、本を読んだ時、一人で考えている時など、相手がいない場面も大切な題材になります。
もちろん文章の上手・下手はまったく問題ありません。
専門知識も必要ありません。
自分が見たこと、聞いたこと、思ったこと、言ったこと、したことを、時間の順にそのまま書くと、リポートになります。
まず、自分が何を悩んでいるのかわかります。
その悩みの奥に、どのような願いがあるのかわかります。
そして、相手の気持ちがわかります。
そうすると、自分と相手の気持ちを尊重しつつ、心を通わせてゆくための知恵が生まれます。
人間関係のすべてに共通する心のからくりを、自分の経験を通して学ぶことができます。


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「自分って何だろう 〜現代日本人の自己形成〜」

渡辺康麿著 より抜粋

(vol . 1 )


他人のモノサシ、 自分のモノサシ
ー 現代日本人の自己評価の試み ー


□何によって人生をよしとするか□

私は、ここで、特定の目的を立て、その目的を達成することによって、 自分の人生を意味づけようとする試みについて、問題を提起したいと思います。
この私の問題提起に対して、みなさんはきっと奇異の念を抱かれるのではないでしょうか。
というのは、私たち現代人にとっては、自分の立てた特定の目的を達成することで、 自分の人生を意味あらしめようとすることは、きわめて当たり前のことだからです。
それにもかかわらず、私としては、自己の目的達成による自己評価の試みに対して、危惧の念を覚えずにはいられないのです。
前近代の伝統社会においては、私たちは、過去の伝統的慣習を守ることで、無自覚的に自分の人生をよしとすることができました。
しかし近代大衆社会になると、もはや、私たちは、ただの過去の伝統を守るだけでは、自分の人生をよしとすることができなくなりました。
私たちは、現代の人々(大衆)の期待にこたえて、人々から評価されることによって、はじめて、自分の人生をよしとすることができます。
しかし、こうなると、私たちの人生の価値は、もっぱら人々の評価に依存するということになってしまいます。
そこから、私たちは、人々の評価によって自分の人生をよしとするのではなく、自分の立てた目的を達成することで、 自分の人生をみずからよしとしようとすることになります。
後近代の個人社会においては、おそらくは、多くの人々が各自が立てた目的の達成によって、 自分の人生をみずから評価しようと試みるようになるでしょう。
他者の期待に適応することによって、自分の人生を意味づけようとする試みは、 言いかえるなら、他者の為に生きる生き方であると言うことができるでしょう。
その他者は、たとえば、国家であったり、会社であったり、家族であったりします。
私たちは、国家のために、会社のために、家族のために、生きるということになります。
自己の目的を達成することによって自分の人生を意味づけようとする試みは、もっぱら、自分のために生きる生き方であるということができるでしょう。
その際、おのおのが立てる自分の目的は、人によって実にさまざまになることは、言うまでもないことでしょう。

□目的達成による自己評価の可能性□

私たちは、目的達成によって自分の人生を、充分によしと認めることができるでしょうか。
もし、私たちが自分の目的を達成することができなかったとしたら、当然、私たちは、自分の人生をよしとすることができません。
このことは、あらためて言うまでもないでしょう。
そのような時、私たちは挫折感を抱くことになります。
それでは、もし、私たちが自分の目的を達成できたとしたら、自分の人生をよしとすることができるのでしょうか。
必ずしもそうできるとは限らないのです。
というのは、私たちは、自分の目的を達成してしまうと、自分の人生を意味づける目的そのものをも喪失してしまうからです。
そういう時、私たちは空虚感におちいります。
大学受験を例にとりましょう。
私たちは、希望する大学の入れないと挫折感を持ちます。
しかし、その希望する大学に入ること自体が目的であったとしたら、その大学に入れると、かえって目的を失い、虚脱感におちいります。
ふつう、こういう現象は五月病と言われています。
とすると、目的を達成できないのでもなく、目的を達成できてしまうのでもなく、目的を達成しつつある場合が、 いちばんよい状態であるということになります。
しかし、本当に、そう言えるのでしょうか。
たしかに、自分の目的が必ず達成されると信じられている時には、私たちは、自分の人生をよしとすることができると、一応、言うことができるでしょう。
しかし、その目的の達成は未来に属することですから、まだ達成されていないということが前提になっています。
それゆえ、ひょっとしたら、自分の目的は達成されないかもしれないという不安が、常に潜んでいると言ってよいでしょう。
もう一度大学受験を例にするなら、仮に私たちが自分の志望する大学に必ず合格するという自信をもっていたとしても、 現実に合格していない以上、どこかで、不合格になるかもしれないという不安感を抱かずにはいられないということです。
今まで述べてきたことをまとめると、私たちは、自分の立てた目的の達成によって、 自分の人生を充分な仕方でよしとすることはできないと言ってよいでしょう。
充分な仕方でよしとするということは、いつでも、どこでも、よしとすることができる、ということを意味しています。

つづく・・・

次回は「他者の存在価値」「手段を目的化する危険性」をお送りいたします。
どうぞ、お楽しみに!

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