セルフ・カウンセリング
自分の心に出会えるメルマガ


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セルフ・カウンセリング
♪ 自分の心に出会えるメルマガ ♪
( ”イライラ””モヤモヤ”が解消できる!)
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第 63 号 2009年 10月 15日
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みなさん、こんにちは。
「セルフ・カウンセリング ♪自分の心に出会えるメルマガ♪」をお読みいただきありがとうございます。
みなさんは、セルフ・カウンセリングという言葉を耳にしたことがおありですか?
これは、渡辺康麿氏が創案した、書いて読む、一人で出来る自己発見法です。
私たちは、このセルフ・カウンセリングを学んでいるグル-プですが、みなさんにも、ぜひ、この方法をお伝えしたいと思い、 同氏の著書を連載することにいたしました。
楽しくお読みいただけたら幸いです。


連載になっております。興味のある方は、バックナンバーからお読みいただくとわかりやすいと思います。
   1〜22号   「自分の心に出会える本」より
   23号〜    「自己形成学の創造」より
   32号〜    「セルフ・カウンセリングの方法」より
   62号〜 新連載「自分って何だろう‐現代日本人の自己形成‐」より



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人は、生まれてから今に至るまでの人生の中で、いろいろな経験をします。
そして、その経験を通して、「こうしなければならない」とか「こうあらねばならない」とかいうその人なりのモノサシを形作っていきます。

自分の生い立ちを振り返ることによって、無意識に取り込んできたそのようなモノサシに気づき、 そのとらわれから自由になっていく方法を自己形成史分析といいます。

セルフ・カウンセリングという方法は、このような、自己形成史分析という自己探求の方法が基礎になっています。

☆★☆セルフ・カウンセリングとは?☆★☆

セルフ・カウンセリングでは、自分が経験した日常生活のある時の場面を書きます。
家庭や学校、職場での場面など、どのような場面でもかまいません。
テレビを見た時、本を読んだ時、一人で考えている時など、相手がいない場面も大切な題材になります。
もちろん文章の上手・下手はまったく問題ありません。
専門知識も必要ありません。
自分が見たこと、聞いたこと、思ったこと、言ったこと、したことを、時間の順にそのまま書くと、リポートになります。
まず、自分が何を悩んでいるのかわかります。
その悩みの奥に、どのような願いがあるのかわかります。
そして、相手の気持ちがわかります。
そうすると、自分と相手の気持ちを尊重しつつ、心を通わせてゆくための知恵が生まれます。
人間関係のすべてに共通する心のからくりを、自分の経験を通して学ぶことができます。


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「自分って何だろう 〜現代日本人の自己形成〜」

渡辺康麿著 より抜粋

(vol . 2 )


他人のモノサシ、 自分のモノサシ
ー 現代日本人の自己評価の試み ー


□他者の存在価値□

私たちが自分が設定した目的を達成することによって、自分の人生を評価しようとする時、 他者の存在は、私たちにとってどんな意味を持つ存在として現れるのでしょうか。
ある他者が、自分の目的を達成することと何らかのかかわりがあるならば、私たちは、その他者の存在に対して関心を持つことができます。
しかし、ある他者が自分の目的を達成することと何のかかわりもないならば、私たちは、その他者の存在に対しては、無関心になるでしょう。
ここで、仮に、ある他者が自分の目的を達成することとかかわりがあったとしましょう。
その他者が自分の目的達成の助けとなるならば、私たちは、その他者の存在を役に立つ存在としてプラスに評価できます。
しかし、ある他者が自分の目的達成にかかわりがあったとしても、その他者が自分の目的達成の妨げとなるならば、 私たちは、その他者の存在を役に立たない存在としてマイナスと評価することになります。
とすると、もし、私たちが自分の目的を達成することにしか自分の人生の価値を置いていないならば、 他者の存在は私たちの前に、自分の目的を達成するための手段としてしか現れてこないことになります。
さらに、一歩踏み込んで言えば、他者の存在は私たちにとって、目的達成による自己評価のための保証人としての意味しか持たなくなると言いかえることもできるでしょう。
今まで述べてきたことを、結婚を例に若干説明しましょう。
たとえば、仮に、私たちが結婚することを自分の目的と定め、その目的の達成によって自分の人生を価値あらしめようとしたとします。
その時、私たちは、結婚適齢期の異性に対しては関心を持ちますが、それ以外の異性に対しては関心を持たなくなります。
また、結婚適齢期の異性であっても、たとえば、現代の女性なら、その適齢期の男性が高学歴、高収入、高背丈でなければ、関心をもたなくなるかもしれません。
仮に今、一人の女性の前に、高学歴、高収入、高背丈という三拍子揃った結婚適齢期の男性が現れたとします。
そして、仮に、彼女は、この彼と結婚することを目的として、あらゆる手段を用いて、彼に結婚を申し込ませることができそうな見通しが立ったとします。
ところが、その寸前で思いがけず、彼の両親が彼女との結婚に反対したとします。
その時、彼女にとっては、おそらく、彼の両親は自分の”結婚する”という目的達成を妨げる、憎き敵として現れることになるでしょう。
あるいは、彼自身が彼女との結婚を望まず、ほかの女性と結婚することを望むようになったとします。
その時の彼女にとって、彼を奪った女性が、彼女の結婚を妨げる憎らしき敵となることは、言うまでもないでしょう。
しかし、それだけではありません。
彼女にとっては、別の女性を選んだ彼自身も憎らしき敵となりうるのです。
そしてさらには、彼の心を奪う充分な魅力を持たなかった自分自身さえもが憎らしい敵となりうるのです。
ところで、仮に、彼女の計画どおり、彼に結婚を申し込ませることに成功したとします。
その時、彼女は、彼に対して「ありがとう!」とは思わずに、「やった!」と思うことになるでしょう。
さらに、一歩突っ込んで言えば、おかしなことに、彼女にとって、結婚してしまえば、その彼の存在はいらなくなってしまうのです。
彼女の目的は結婚することにあるのであって、彼との家庭生活を営むことにはならないからです。
あるいは彼女は、また別の新しい目的を見い出して、彼をその別の目的を実現する手段として、用いるようになるかもしれません。
以上見てきたように、もし、私たちが特定の目的を立てて、その目的達成によってのみ自分の人生を意味づけようとする時、 自分の立てた目的自体が絶対的な価値を持つようになり、
ほかのすべてのものは、目的のための手段としての価値しか持たなくなってしまう危険性が、常にはらまれているのです。
ここに、自己の目的達成によって自分の人生を意味づけようとすることの、最大の問題性が潜んでいると言ってよいでしょう。

□手段を目的化する危険性□

手段が目的に転化するということは、いつでも、どこででも、起こりうることだと言ってよいでしょう。
その最も卑近な例は、貨幣=お金です。
お金は、それ自体としては何の価値をも持っていません。
そのことは、ある意味では誰でもが承知していることです。
しかし、お金によって、ペン先から豪華な邸宅に至るまでの、ほとんどあらゆる品物を獲得することができます。
それだけではありません。
また、お金によって、余暇や教養や社会的地位を獲得できます。
時には、お金によって、女性の愛情さえ獲得できます。
つまり、お金は、あらゆる価値を得るための普遍的な手段となりえます。
何の役にでも立つゆえに、「とにかく持っていて損はない」ということになります。
その意味で、私たちにとってお金を得ること自体が、知らず知らずのうちに自己目的となっってゆくのです。
親が子どもに一流の大学をださせようよすることも、手段が目的となってしまう典型的な例であると言うことができるでしょう。
親としては、わが子を一流大学に入らせることができれば、一流会社に就職ができ、一流会社に就職できれば、 わが子に一生幸福な生活を送らせることができると考えるからでしょう。
ここで言う「幸福な生活」とは、さしあたり、気楽に暮せる経済的収入があり、人々から認められる社会的地位をもつ生活とでも言ったら、 あたらずといえども遠からずというところではないでしょうか。
しかし、親としてもはじめから、わが子を幸せにするためには、何が何でも一流大学に入らなくてはならないと考えていたわけではないでしょう。
はじめは、一流大学を出しておいたほうが、そうでないよりは子どもの将来にとって役に立つと考えていただけなのかもしれません。
「とにかくお金を持っていて損はない」のと同じように、「とにかくよい大学を出ていて損はない」というぐらいのことだったのかもしれません。
しかし、一度受験戦争に巻き込まれると、そのうちに、親は、何が何でも子どもを一流の大学に入らなくてはならないと思い込み、 子どもも、何が何でも一流大学に入らなくてはならないと思い込むようになります。
それと言うのも、私たちが、ある目的を実現させようと努力ししはじめると、その努力目標は容易に絶対化されてゆくからです。
言いかえると、はじめは手段でしかなかったことが、容易に目的となってしまうのです。
このように考えてみると、ふつう、私たちが、人生航路において目的と考えていることも、みな手段にすぎないのかもしれません。
ちょっと私たち自身の胸に問いかけてみましょう。
私たちは進学するために生きているのでしょうか。
私たちは就職するために生きているのでしょうか。
私たちは結婚するために生きているのでしょうか。
私たちは長生きするために生きているのでしょうか。
少なくとも、私には、そのいずれの目的も、手段になりえても人生の究極の目的であるとは考えられません。
それでは、私たちが生きる究極的目的とは、いったい何なのでしょうか。

つづく・・・

次回は「人間性とは?」「自分を振り返る時の問題」をお送りいたします。
どうぞ、お楽しみに!

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