セルフ・カウンセリング
自分の心に出会えるメルマガ


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セルフ・カウンセリング
♪ 自分の心に出会えるメルマガ ♪
( ”イライラ””モヤモヤ”が解消できる!)
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第 105 号 2011年 7月 15日
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みなさん、こんにちは。
「セルフ・カウンセリング ♪自分の心に出会えるメルマガ♪」をお読みいただきありがとうございます。
みなさんは、セルフ・カウンセリングという言葉を耳にしたことがおありですか?
これは、渡辺康麿氏が創案した、書いて読む、一人で出来る自己発見法です。
私たちは、このセルフ・カウンセリングを学んでいるグル-プですが、みなさんにも、ぜひ、この方法をお伝えしたいと思い、 同氏の著書を連載することにいたしました。
楽しくお読みいただけたら幸いです。


連載になっております。興味のある方は、バックナンバーからお読みいただくとわかりやすいと思います。
  1号〜    「自分の心に出会える本」より
 23号〜    「自己形成学の創造」より
 32号〜    「セルフ・カウンセリングの方法」より
 62号〜 新連載「自分って何だろう‐現代日本人の自己形成‐」より



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人は、生まれてから今に至るまでの人生の中で、いろいろな経験をします。
そして、その経験を通して、「こうしなければならない」とか「こうあらねばならない」とかいうその人なりのモノサシを形作っていきます。

自分の生い立ちを振り返ることによって、無意識に取り込んできたそのようなモノサシに気づき、 そのとらわれから自由になっていく方法を自己形成史分析といいます。

セルフ・カウンセリングという方法は、このような、自己形成史分析という自己探求の方法が基礎になっています。

☆★☆セルフ・カウンセリングとは?☆★☆

セルフ・カウンセリングでは、自分が経験した日常生活のある時の場面を書きます。
家庭や学校、職場での場面など、どのような場面でもかまいません。
テレビを見た時、本を読んだ時、一人で考えている時など、相手がいない場面も大切な題材になります。
もちろん文章の上手・下手はまったく問題ありません。
専門知識も必要ありません。
自分が見たこと、聞いたこと、思ったこと、言ったこと、したことを、時間の順にそのまま書くと、リポートになります。
まず、自分が何を悩んでいるのかわかります。
その悩みの奥に、どのような願いがあるのかわかります。
そして、相手の気持ちがわかります。
そうすると、自分と相手の気持ちを尊重しつつ、心を通わせてゆくための知恵が生まれます。
人間関係のすべてに共通する心のからくりを、自分の経験を通して学ぶことができます。


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「自分って何だろう 〜現代日本人の自己形成〜」

渡辺康麿著 より抜粋

(vol . 43)


子どもたちのSOS
ー いじめ ー


□T 現象の考察□(つづき)

☆★☆現代のいじめの特徴☆★☆

現代のいじめには、どんな特徴があるのでしょうか。
ここで、私は、現代のいじめの特徴として、さしあたって三つの側面をあげておきたいと思います。
それは、いじめの集団化、流動化、遊戯化の三つです。
これらの三つの側面は、相互に深く関連しあっています。

(1)いじめの集団化

現代のいじめの第一の特徴は、いじめる者(加害者)が多数であって、いじめられる者(被害者)が少数であるということです。
それだけではありません。
いじめられる者がただ一人であるという場合が、ほとんどなのです。
多数者が圧倒的な数の力を背景に、ただ一人をいじめるのです。
文字どおり多勢に無勢で、いじめられている者がいじめる者をやり返す可能性は全くないのです。

(2)いじめの不特定化と慢性化

昔には、いわゆるいじめっ子タイプとか、いじめられっ子タイプとかいうような特定のタイプの子がいました。
たとえば、頭はわるいけれど、腕力は強いガキ大将のようないじめっ子タイプの子とか、 頭はいいけど、とても臆病ないじめられっ子タイプの子とかがいたのです。
しかし、現代のいじめの第二の特徴は、いじめっ子にも、いじめられっ子にも、ともに特定のタイプが見あたらないということです。
誰もがいじめる者にもなれば、いじめられる者にもなりうるのです。
さらには、いじめる者がいじめられる者になったり、いじめられる者がいじめる者になったりします。
いじめる者は、成績のよいわるいとか、腕力の強い弱いとかには、かかわりがないのです。
また、いじめられる者も同様です。
いったい、何がいじめる者といじめられる者とを分けるのでしょうか。
もし、あえて言えば、それは、みんな並みかどうかによると言ってよいでしょう。
それがよいことであれわるいことであれ、クラスのみんなと少しでも違っている子は、いじめられる恐れがあるのです。
みんな並みであることが、最も安全であると言ってもよいでしょう。
いじめる者といじめられる者とを分ける秘密の鍵は、数なのです。
まさに、数こそ力、力こそ正義だという大衆民主主義社会の縮図であると言ってもよいでしょう。
最後に一つつけ加えておきたいことがあります。
それは、いじめる者やいじめられる者が変わっても、いじめそのものはクラスの中で決してなくならず、いつまでも続くということです。

(3)いじめの遊戯化

現代のいじめの第三の特徴は、いじめが先生や親などの大人の目に見えにくいことです。
クラスの誰が誰をどのような仕方でいじめているのか、先生には全くわからないということが多いのです。
いじめが見えにくいのは、特定の誰かがいじめているのではなく、不特定多数のみんながいじめているからです。
しかし、それだけではありません。
いじめる者たちが自分たちのいじめを先生に見つからないように巧妙に隠すからです。
現代のいじめは、この点ですでに遊戯性(ゲーム性)をおびていると言うことができます。
いじめる者は、さまざまないじめる手だてを考え出しては、それを試します。
そして、そのいじめの手だては、だんだん激しくなっていきます。
相手により強い、そしてより深い苦痛(キズ)を与える手だてがとられていくのです。
ここでは、具体的な手だてがどんなものであるかについては、触れないでおきましょう。
新聞紙上で充分すぎるほど報道されているからです。
ただ、一つの点だけは指摘しておきたいと思います。
それは、一見まるでいじめる者が相手に身体的、精神的苦痛を与えること自体に楽しみを見い出しているかのように見えるということです。
この点でも、いじめが遊戯化(ゲーム化)されてしまっているように思われます。
もし、いじめが遊びとして行なわれているとしたら、むろん、いじめる者に罪の意識はありません。
否、それどころか、いじめられる少数者が悪いのであって、いじめる多数者こそよいのであるという巧妙な正当化さえ行なわれます。
戦後の日本における民主主義は、多数の意見が真理なのだという多数主義に変質しました。
その大人の考え方が子どもの考え方のうちに反映していると言ってもよいでしょう。

つづく・・・

次回は「 いじめの構造」をお送りいたします。
どうぞ、お楽しみに!

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