セルフ・カウンセリング
自分の心に出会えるメルマガ


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セルフ・カウンセリング
♪ 自分の心に出会えるメルマガ ♪
(”イライラ””モヤモヤ”が解消できる!)
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第 312 号 2020年 3月 1日
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みなさん、こんにちは。

「セルフ・カウンセリング ♪自分の心に出会えるメルマガ♪」をお読みいただきありがとうございます。

みなさんは、セルフ・カウンセリングという言葉を耳にしたことがおありですか?

これは、渡辺康麿氏が創案した、書いて読む、一人で出来る自己発見法です。

私たちは、このセルフ・カウンセリングを学んでいるグル-プですが、みなさんにも、ぜひ、この方法をお伝えしたいと思い、 同氏の著書を連載することにいたしました。
楽しくお読みいただけたら幸いです。


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連載になっております。興味のある方は、バックナンバーからお読みいただくとわかりやすいと思います。
  1号〜「自分の心に出会える本」
 23号〜「自己形成学の創造」
 32号〜「セルフ・カウンセリングの方法」
 62号〜「自分って何だろう‐現代日本人の自己形成‐」
136号〜「大人の自己発見・子どもの再発見」
176号〜「自分を見つける心理分析」
286号〜 新連載「避けられない苦手な人とつきあう方法」

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人は、生まれてから今に至るまでの人生の中で、いろいろな経験をします。

そして、その経験を通して、「こうしなければならない」とか「こうあらねばならない」とかいう その人なりのモノサシを形作っていきます。

自分の生い立ちを振り返ることによって、無意識に取り込んできたそのようなモノサシに気づき、 そのとらわれから自由になっていく方法を自己形成史分析といいます。

セルフ・カウンセリングという方法は、このような、自己形成史分析という自己探究の方法が基礎になっています。


☆★☆ セルフ・カウンセリングとは? ☆★☆


セルフ・カウンセリングでは、自分が経験した日常生活のある時の場面を書きます。

家庭や学校、職場での場面など、どのような場面でもかまいません。

テレビを見た時、本を読んだ時、一人で考えている時など、相手がいない場面も大切な題材になります。

もちろん文章の上手・下手はまったく問題ありません。
専門知識も必要ありません。

自分が見たこと、聞いたこと、思ったこと、言ったこと、したことを、時間の順にそのまま書くと、リポートになります。

まず、自分が何を悩んでいるのかわかります。
その悩みの奥に、どのような願いがあるのかわかります。

して、相手の気持ちがわかります。

そうすると、自分と相手の気持ちを尊重しつつ、心を通わせてゆくための知恵が生まれます。

人間関係のすべてに共通する心のからくりを、自分の経験を通して学ぶことができます。

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「避けられない苦手な人とつきあう法」
渡辺康麿著  より抜粋
( vol . 27 )
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― 第三章 ―
避けられない家庭の人間関係
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ー 嫁 → 義母 ー
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吉川玲子 [40代女性]

前号からの続きですので、 バックナンバー311号からお読みいただくとわかりやすくなっています。

☆★☆夫(息子)の気持ちを知りたい☆★☆

姑と私の心の動きが共通しているのは、夫が無言でいたことに対して、次第に不安を募らせていた部分でした。
どちらも“夫(息子)の気持ちを知りたい”と思っています。
どう思っているのか分かれば落ち着ける、と思っていたのだと気づきました。

☆★☆私の後悔が書かせた心のセリフ☆★☆

姑の心のセリフを代記述したなかに、実際の姑は決して口に出さなかった言葉があることに気づきました。
それは、<早く死んだほうがいい>という心のセリフです。
その文の洞察では、感情“孤独感”、欲求“早く死にたい”と取り出しました。
姑は、私に「早く死にたい」とか、「早くお迎えが来てほしい」などと言ったことはありませんでした。
以前同居していた私の実母は、気に入らないことがあるとすぐ、「早く死にたい」と言っていました。
そんな時、私は「何が不足でそんなことを言うの」と言ったものでした。
姑は、そのような私たち親子の会話を、いつもそばで聞いていたのです。
私は、姑もこの言葉を口に出していうことができたなら、どんなに楽だったろう、と想像しました。
故意に言わせなかったわけではありませんが、言いたいことを、気がねせず自由に言える環境をつくってあげていたら、 という私の後悔の気持ちがこの心のセリフに表れたのかもしれません。

☆★☆こういう思いが本当にあったのだろうか?☆★☆

〈やっぱり田舎にいたほうがよかったかなぁ〉、〈自分の家で死ねたおじいさんは、幸せだったのではないかなぁ〉 この2文も、姑は決して口に出しませんでした。
感情表現として心のセリフを取り出した時は、自然に出てきた表現でしたが、 欲求洞察をする段になって、適当な感情と欲求を取り出せませんでした。
姑の心のなかに、本当にこのような思いがあっただろうか、と考え込んでしまいました。
もし、本当にこう思っていたのなら、感情は“絶望感”、欲求は“田舎に帰りたい”“おじいさんと同じように田舎で死にたい” などとなるはずです。
姑にこのような思いがあったとしても、現実には田舎に行くことは決してなかったろうと思いました。
なぜなら、姑は自分の気持ちを優先して、息子たち(夫と田舎にいる夫の弟)の立場を苦しくさせるようなことは、 しなかったに違いないと思うからです。

☆★☆「罪ほろぼし」という言葉はどこから出たのだろう?☆★☆

前回の自己探究で、私が最も引っかかったところは、姑が「罪ほろぼしのためにやったのよ」と言った言葉でした。
ですから、今回の姑の立場での探究も、敢えてこの部分をじっくり洞察してみたい、と思いました。
姑が「罪ほろぼしのためにやったのよ」と言い出したことに対して、私は前回、“自分の行為を正当化するためか、 息子をかばうためか分かりませんが・・・”と書いています。
私は、姑が突然、夫が子供だった頃に優しくしてやれなかった話を持ち出したように感じていました。
けれども、今回、何度も読み返しているうちに、気づいたことがありました。
姑がこの話を持ち出したのは、その前に私が言った、「小さい子じゃないんだから、いちいち親に出させないの」 という言葉に触発されてのことだったのではないか、と思いました。

☆★☆私の自責感を見つめて☆★☆

また、前回、私が姑の言葉に引っかかった理由として、私の実母に対する自責感があったのではないかと思いました。
「罪ほろぼし」という言葉は、私の自責感を刺激するものだった、と気づきに書きました。
ところが、今回、この部分の欲求洞察をしている間、私の心のなかに実母のことは全く浮かびませんでした。
何度も、姑の感情として“後悔”と“自責感”を取り出し、
欲求として“もっと優しく接したかった”“悪い母親と思わないでほしい”“あの頃の私を許してほしい”と取り出しながら、 その思いが、長女に対する私自身の後悔と自責感とに重なっていることに気づきました。
長女が3歳8か月の時には、下に弟と妹が生まれていました。
私は長女の年齢も考えず、“お姉ちゃんだから”と、あれこれ無理な要求をしていました。
そして、要求どおりにできないことに腹を立てていたことを思い出しました。
長女は、一生懸命に私の期待に応えようとして、耐えることが当たり前になっていたようです。
そのうち、原因不明の難病にかかり、医者から、その病気が、たぶん神経から来ているのだろうと言われてみて、 初めて私が長女の重石になっていたことに気づきました。
それからというもの、長女の病気に良さそうな情報を得るたびに、長女を連れて歩いたことを思い出しました。
幸い、今では長女の病気も良くなり、二児の母親になっていますが、私の心の中の後悔と自責感は消えるものではありません。
私は、前回の探究で、“実母に対する自責感を自覚することを恐れて、心の操作をしていたことに気づいた”と書きました。
けれども、私が最も気づきたくなかったのは、長女に対する自責感だったのだと分かりました。

☆★☆姑と私の嫉妬☆★☆

代記述の心のセリフ、 〈ダイちゃんはいいよ。
おとなになってもお母さんに面倒みてもらっているんだから〉
という部分の欲求洞察で、姑から息子(私の夫)に対する感情と欲求をくりかえし書いていいるうちに、 〈あぁ、そうか〉と思い当たることがありました。
姑は、大人になった息子をせっせと面倒みている嫁(私)に嫉妬していたんだな、と思いました。
そこに気づいた時、今までモヤモヤしていた心のなかが急に晴れて行くように感じました。
私は、“嫁姑の確執は醜いもの。嫁と姑は仲良くすべき”というモノサシを持っていました。
それは、嫁と姑の間で、一人の男性を巡って、どちらがより多く夫(息子)の愛を獲得するか、 という争いのようなイメージを抱いていたのだと思います。
本当はそうではなかったんだ、と思いました。
そして私自身もまた、姑の、夫に対する愛の深さに嫉妬を感じていたことに気づきました。
ということは、相手(夫)がどう思うか、と心配することではなく、 あくまでも自分の責任の範疇で決めればいいことなのだ、と納得できました。

☆★☆理解を深めて得られたもの☆★☆

今回、姑の立場での他者理解に取り組み、姑が実によく、私に話をしてくれていたことに驚きました。
子供の頃の新潟での事、両親や祖母や兄弟や親戚の事、結婚前の娘時代の事、 結婚後の生活やその周辺の人々の事、戦中、戦後の事、夫やその弟妹の子供時代の事など・・・。
実の子供たちが知らない事まで、私に話してくれたことが分かりました。
もしかしたら、姑は、夫よりも私を頼りにしてくれたのかもしれない、と思いました。
今は亡き姑に対する自責感は、次第に小さく色あせたものになっていくように感じました。
それは、セルフ・カウンセリングの他者理解の方法によって、姑の気持ちを少しずつ理解し、 自分自身の理解をも深めることができたからではないかと思います。
今は、姑をとても懐かしく思い出します。

つづく・・・

次回は「避けられない身内の人間関係」をお送りいたします。

どうぞ、お楽しみに!

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