キャラクター セルフ・カウンセリング(R) 渡辺康麿 創案 トップページへ戻る
渡辺康麿について セルフ・カウンセリングについて
対Netscape用メニューを真ん中に寄せるための仕掛けプロフィール活動歴著書対Netscape用メニューを真ん中に寄せるための仕掛け 対Netscape用メニューを真ん中に寄せるための仕掛け詳細学ぶ学会 対Netscape用メニューを真ん中に寄せるための仕掛け

活動内容
近代化の淵源を探る (4/6)
 

その後、明治政府は、藩兵を廃止し、全国一律の徴兵令を出し、直属軍を創設しました。さらに、追い討ちをかけるように、四民平等令や、廃刀令や、秩禄奉還令を出して、武士という身分を解体してゆきました。軍事制度の合理化をはかると同時に、徴税制度についても、地租改正を行なって、合理化をはかりました。

こうした、近代化を推進する努力の頂点に立っていた人物が明治天皇でした。これらの「近代化」は、民衆による「下からの近代化」ではなく、政府による「上からの近代化」であった、と言うことができるでしょう。

明治政府の国家目標

 「欧米諸国の植民地に転落しない」ということが、明治政府の原動力でした。そのためには、まず、産業を興して、経済力をつけ、その財力で、軍事力を強めること、すなわち、「富国強兵」を実現する必要がある、と明治政府のリーダーは、考えたのです。

 日本の知識人たちは、欧米の近代思想を国民に紹介しました。やがて、この近代思想は、自由民権運動の支えとなってゆきます。

大日本帝国憲法発布

 日本が近代国家として、国際的に認められるためには、憲法を制定しなくてはなりませんでした。しかし、明治政府をして、憲法を制定せざるをえなくした最大の原因は、民権運動の高まりでした。

 自由民権運動の指導者たちは、憲法制定を声高に叫び、みずからも、私擬憲法(民間人の手による憲法の草案)を盛んにつくりはじめました。その私擬憲法には、国民の権利を重んずる、民主主義的な内容が盛りこまれていました。

 明治政府の指導層は、そのような民権運動の動向に危機感を抱き、天皇制を強化する憲法を模索していました。彼らは、憲法研究のために、伊藤博文をヨーロッパに派遣しました。

伊藤は、欧州各国の憲法を比較検討した結果、君主権の強大なドイツ流の憲法をとり入れることにしました。帰国後、日本の実態に合うように修正を加えた後、伊藤は、その草案を枢密院(天皇の最高諮問機関)に提出しました。その草案は、天皇の臨席のもとに、枢密院で議論されました。

 そして、1889年2月、ついに欽定(君主である天皇が臣民である国民に授ける)という形をとって、大日本帝国憲法が発布されました。

この憲法の第一条には、「大日本帝国は、万世一系の天皇、これを統治す」と書かれており、第三条には、「天皇は、神聖にして侵すべからず」と書かれています。この憲法では、主権は、国民にあるのではなく、天皇にある、とされています。また、天皇には、国家を統治し、支配する強大な「大権」が与えられています。

天皇は、あらゆる文官(国務大臣も含まれる)や、武官を任命したり、罷免したりする権限や、宣戦布告したり、講和や条約を締結したりする権限を持っていました。さらに、内閣から独立して、軍隊を指揮する権限をも握っていました。

 
前のページへ←  (4/6)  →次のページへ
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6

戻る

Copyright(c)2000-2001 セルフ・カウンセリング学会/渡辺康麿
「セルフ・カウンセリング」は登録商標です。